樋口一葉と桜(塩山市・慈雲寺の垂れ桜) | 花の会

樋口一葉と桜(塩山市・慈雲寺の垂れ桜)

一葉と桜1塩山市「慈雲寺のシダレザクラ」

 大菩薩峠に近い、山梨県塩山市の「慈雲寺」には
樹齢300年以上の見事な枝垂桜がある。
 今から、160年前、小説家樋口一葉の両親は
この寺で農閑期に開かれていた寺子屋で学んでいた。
 160年前、この枝垂れ桜は樹齢150年を超えていたから、
二人が出会った頃も、江戸への駆け落ちに悩んでいた時も
現在と同じように美しく花開いていたに違いない。
そして、東京に住んでいた一葉の両親は折に触れ、
故郷の枝垂れ桜の美しさを子供に語ったのではないだろうか。
 大正5年(1916)一葉の妹邦子が先祖の墓参りをした時、
邦子と故郷の人の間で、一葉の記念碑を建てる話が出た、
樋口家の菩提寺は同じ村の法正寺なのに、
大正11年(1922)10月、慈雲寺境内に、一葉の記念碑が建てられた。

山梨県塩山市「慈雲寺」の枝垂れ桜
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/jiunji/index.htm

 樋口一葉の父(大吉)は山梨郡中萩村(現塩山市)の
重郎原の農家樋口八左衛門の長男として、
天保元年(1830)年11月28日に生まれた。
 一葉の母(あやめ)は同じ中萩村の青南組で地主格の農家
古屋安兵衛の長女として、天保5年(1834)5月14日に生まれた。
(江戸時代、農民は原則として姓を名乗らなかったが記録は残っている)
 
 その頃の日本の出来事
嘉永6年(1853)6月3日 ペリー提督が浦賀沖に来航
安政元年(1854)4月   日米和親条約12か条を調印
安政2年(1855)11月   江戸は安政の大地震
安政3年(1856)3月   それまでの洋学所を蕃所調所と改称した。
  蕃所調所は幕府直轄の西洋学術学校で、
  幕臣の子弟を集めて外国語を学ばせていた。
  勝海舟、村田蔵六(大村益次郎)、西周等が籍を置き、
  福澤諭吉も辞書をみるために一日だけ入学した。
  後に江戸に来たハリス一行と会議する場所にもなった。
  同郷の先輩真下専之丞が蕃所取調役として勤めていた。
  一年後、江戸に出てきた一葉の父大吉が真下の世話で、
  小使として、最初に勤めた所でもある。
  大吉が勤めた頃、ハリス一行が江戸に来ていた。

    同年   9月    米総領事ハリスが伊豆下田着任した。

 今から150年前、安政4年(1857)旧暦4月6日
村一番の秀才であった一葉の父大吉(26歳)は
自らの蔵書150冊を売り3両の金を工面,
村一番の器量良しと言われた、妊娠8ヶ月のあやめ(23歳)を連れて、
両親に無断で故郷の村を棄てた。
 二人は追手を逃れて、通常の青梅街道で江戸に出る事を避け、
御坂峠を越え、川口吉田から小田原に抜けた。東海道を東に、
藤沢の遊行寺、鎌倉、川崎大師、羽田弁天にお参りしながら、
村を出てから7日目の4月13日に
郷里の先輩真下専之丞を頼って、江戸に着いた。

 一葉の両親が村を捨て、江戸に駆け落ちをした理由について、
つぎのような事が考えられる。

理由1、母方の親が二人の結婚に反対した。
 ①母方の家は地主格の農家で両家の家格が違っていと考えた。
 ②両親はあやめが村一番の器量良しであるから、大吉の家より
   もっと良い家に嫁に行けると考えていた。
 ③樋口家は代々、らい病や結核の家系であったという。
 ②一葉の祖父八左衛門は嘉永4年(1851)村で水争いが起きた時、
   百姓惣代として、江戸に行き、老中阿部正弘に駕籠訴し、捕まった。
   その為、半年間、江戸、小伝馬町の牢に投獄された後に無罪になる。
   理由が如何であれ、大吉は投獄された人の長男であった。
 ③ 大吉は江戸に出る時、蔵書150冊を売り、3両の金を工面している。
   大吉は生来農を好まず、寺子屋では秀才で読書好きであった。 
   投獄された祖父も、学問好きで漢詩や俳句を嗜んでいた。
    母方は畑仕事に熱心でない父方の家風を嫌ったのではないか?
    これは明治になってからの話であるが
    一葉は学校の成績が良かったのに11歳、高等科4級で退学した。
   父親は一葉を進級させようとしたし、一葉も進級を希望していたが、
   母の「女に学問はいらない」という強硬な反対で進級できず、
   学業を途中で止めさせられた。
    (後に小学校中退という学歴は一葉を苦しませた。)

理由2.父方は大吉の江戸行きをそれほど反対ではなかったのではないか?
   一葉の祖父八左衛門は同郷の同輩益田藤助(真下専之丞)が
   江戸に出て、幕府直参にまで出世したのがうらやましかった。
   その夢を寺子屋で成績の良かった長男大吉に託したのではないか。
   小さい時から、江戸に出て、侍になれと父に言われていた。

理由3.一葉の母あやめが妊娠してしまった。
     村に居ずらくなったあやめが大吉に江戸行きをけしかけた。

(両親の駆け落ちという苦い思い出は一葉の結婚観にも影響している。)