桜の歌 | 花の会

桜の歌

「万葉集」を纏め始めたのは奈良時代(759年)、
東大寺や唐招提寺が建立された頃で、
「梅」の歌118首、桜の歌は44首で梅の歌が多かったのに
平安時代(905年)紀貫之に選ばれた「古今和歌集」では
「梅」の歌が18首に対して、桜の歌は70首と桜の割合が増えた。
桜の花が春を歌う花の主役になった。
 
有名な「伊勢物語」の中で、文徳天皇の皇子の惟喬親王は
水無瀬(現在の大阪府三島郡島本町)の別荘に
度々、馬頭(馬を司る役所の長官)であった在原業平など、
気のあった仲間を誘って、鷹狩に出かけられた。
ある年の春、水無瀬の対岸の交野という所の桜が
見事に咲いていたので、一行は狩を中止して、馬をおり、
桜の木の下で、宴会を始めてしまった。
宴会の余興に誰だか名前を忘れたが一首を詠んだという。

 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
                           
この歌を古今和歌集では在原業平朝臣の歌としている。
この歌に答えて「他の人」が次の歌を詠んだ

 散ればこそいとど桜はめでたけれ、浮き世になにか久しかるべき

この歌を詠んだ「他の人」の名前は今でも、わからないが
古今和歌集には惟喬親王が僧正遍昭に贈った歌として
次の歌が載っている。

 桜花散らば散らなん散らずとて ふるさと人のきても見なくに

惟喬親王は後に出家して不遇の生涯を送ったといわれている。
親王と「男の友情」で結ばれていた業平も、晩年は不運であった。

太政大臣藤原基経が40歳を祝う席で業平が詠んだ歌に

 桜花散りかひくもれ 老いらくの来むといふなる道まがふがに
                           在原業平朝臣

古今集は桜の花が散ってゆく様を詠んだ歌が多い。
平安時代の中頃から、藤原氏全盛の時代になり、
菅原道真に代表されるように、藤原氏以外の貴族たちには
名門の出でも出世の道は閉ざされてしまうようになった。
そのような自分達の境遇を貴族たちは
散りゆく桜の花びらに託したのではないだろうか。

  
 久方のひかりのどけき春の日に しづ心なく花のちるらむ
                            紀 友則

 桜花ちりぬる風のなごりには 水なき空に浪ぞたちける
                             紀 貫之

 花の色はうつりにけりな 徒に 我が身世にふるながめせしまに
                             小野小町

これらの歌は日本語として、軽やかなリズムがあり、美しい、
咲いた桜の花の下で、どの歌でも、つぶやいて見てください。
隣にそっと、業平が、小町が訪ねてくるかもわかりません。


以上