白州正子と西行 | 花の会

白州正子と西行

西行の命日は旧暦の文治6年(1190)年2月16日で新暦で数えると1190年の3月30日になる。 西行の命日なので、私が一番印象に残っている、白州正子さんの著書から、西行について書かれた文章を取り上げて、西行の事を追ってみたい。

白州正子著 『花にもの思う春』 白州正子の新古今集 1985年 

第二部 新古今時代の歌人  西行から  241ページ  

これも後鳥羽院の御口伝にある言葉で、『どんな歌でもいと軽々と詠みくだした西行は「生得の歌人」「不可説の上手」と呼ぶより他はなかったであろう。本歌取りや『源氏物語』を思い浮べる前に、西行の詞は次から次へ生れて来て、歌の姿をなして行った。心に思っていることが、そのまま歌の調べとなってあふれ出る、「生得の歌人」とはそうしたものだろう。字あまりや、俗語に、一々かまっている暇などある筈はない。 おそらく西行は、俊成や定家の苦しみは知らなかった。彼の苦しみは、上手な歌を詠むことにはなく、いかに生くべきか、その一事にかかっていた。西行の歌の新鮮さは、そこにある。人間にとって、常に新しく、そして古い問題だからである。』 白州さんが選んだ西行の桜の歌   

同書246ページから

吉野山桜が枝に雪散りて 花遅げなる年にもあるかな

吉野山去年(こぞ)のしをりの道かへて まだ見ぬかたの花を尋ねん

ながむとて花にもいたくなれば 散るわかれこそ悲しかりけれ

春風の花をちらすと見る夢は 覚めても胸のさわぐなりけり

花みればそのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける

さきそむる花を一枝まづ折りて 昔の人のためと思はむ

仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば

ねがはくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃


『終りの歌は西行の辞世のようにいわれているが、そうではあるまい。が、人間は心の底から念っていれば、そのとおりになるものらしい。文治6年(1190)2月16日、奇しくも望月のその日に、西行は河内の広川寺において入滅した。お墓は広川寺の裏山に、小さな円墳を築いて祀ってあり、毎年、新暦の4月16日には、里人が集まて供養を行っている。「仏には桜の花をたてまつれ」の詞を守って、住職は境内を桜で埋めることを念願とされ、お参りに行く度ごとに桜の樹がふえて、みごとな花を咲かせているのは有がたいことである。』                                以上