永井路子の講演会から | 花の会

永井路子の講演会から

先日、永井路子さんの講演会に行って来ました。
永井さんのお話はラジオやテレビで何度も聞いているので、
その語り口は知っていましたが実際に聞いて見ると、
話は大変にうまく、内容もしっかりしています。
時々、冗談を話されるのでラジオやテレビとは違う親しみが感じられ、
永井さんの歴史文学とは違う面白さでありました。

演題「女帝の流れをうけついで」
10月10日(火) 新宿住友ビル7階 朝日カルチャーセンター

奈良時代、道鏡を愛した孝謙(称徳)女帝の死を最後に女帝は永い間消えてしまう。
江戸時代、二人の女帝が出現するが、彼女たちは歴史の主役にはなれなかった。
では女帝が消えてから、日本の女性は政治の場から遠ざけられたのか、
全く無力だったのかと言うと決してそうではない。
母系、双系社会から、平安時代に父系制社会が確立すると、
歴史の表舞台から、女性が姿を消したように考えるが、それは間違いである。
第一に天皇の母としての「国母(こくも)」が歴史に重要な役割を果たした
第二に幼い天皇の養育から成人後の政治・政略に預かる「乳母(めのと)」として、
歴史の表舞台に影響を与え、女の歴史はしっかりと続いていた。
①「国母」の例として、第64代円融天皇に嫁いだ
藤原兼家の娘 詮子(せんし)女御を取り上げた。
皇太后詮子は長兄の関白藤原道隆が死んだ時、
順当なら、道隆の息子伊周(これちか)が関白になるのに、
当代一条天皇の母として、息子に助言、次兄の藤原道長を推薦した。
道長が関白の位に就き、伊周は左遷された。
②第66代一条天皇のお后には藤原道隆の娘、定子と藤原道長の娘、彰子がいた。
皇后定子には清少納言、中宮彰子には紫式部・和泉式部が教育係として仕え、
平安文学が花開いた。
③紫式部は大変な教育ママで、夫藤原宣孝との間にもうけた一人娘を
最初、中宮彰子に仕えさせた。彰子の妹嬉子が親王を生むと乳母を務め、
高階成章と結婚した。25年後、親王が後冷泉天皇に即位すると、
夫高階成章は太宰大弐という大宰府の次官に就任した。
太宰大弐という役職はお金の儲かる職位で、大金持ちになって都に帰ってきた。
以上