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「花の会」古典鑑賞公開講座のお知らせ

『花の会』のお知らせ


『花の会』は20年前、
歌舞伎好きの主婦達が始めた
自主運営の「古典鑑賞公開講座」です。

         《平成17年度(2005)秋期スケジュール》


               時間:木曜日 午後2時~4時
               場所:世田谷区烏山区民センター
                   粕谷区民センター

8月25日(木)「黙阿弥以後の明治の歌舞伎 Ⅰ」
             講師 :明治大学教授    神山 彰氏
             会場 :烏山区民センター 第四会議室

9月 1日(木)「黙阿弥以後の明治の歌舞伎 Ⅱ}
             講師 :明治大学教授    神山 彰氏
             会場 :粕谷区民センター 第三会議室

10月6日(木)「能『通小町』について」
             講師 :日本能楽会理事 シテ方金春流
                               高橋 汎氏
             会場 :烏山』区民センター 第四会議室

10月20日(木)「絵で読む歌舞伎の歴史 最終回」
             講師 :千葉大学名誉教授  服部幸雄氏
             会場 :烏山区民センター 第七会議室

11月17日(木)「坂田藤十郎襲名について」
             講師 :松竹歌舞伎プロデュサー 岡崎哲也氏

             会場 :世田谷文学館 会議室

12月8日(木)「未定」
             講師 :演劇評論家      藤田 洋氏
             会場 :烏山区民センター 第四会議室

             会費: 全6回分 4000円 (単独受講は900円)


11月13日(日) 能楽鑑賞会 国立能楽堂 『通小町』 12時半より
                        シテ 高橋 汎

連絡先、 nmwtg303@ybb.ne.jp 長谷川まで
                      

河竹登志夫歌舞伎講演会

河竹登志夫先生歌舞伎講演会のお知らせ  

  「花の会」20周年記念講演会

古典芸能研究会「花の会」の20周年を記念して、
偉大な歌舞伎作者,河竹黙阿弥の曾孫で、
演劇研究の権威でいらっしゃる、
河竹登志夫先生に御講演をお願いしました。

日時  平成17年7月14日(木)午後2時~4時 


演題  「世界に羽ばたく歌舞伎」
      歌舞伎の海外公演を中心に

      戦後歌舞伎の思い出

 
講師  早大名誉教授 文化功労者

                                     河竹登志夫氏
会費  900円
会場  世田谷区 

     烏山区民センター3階集会室にて

            東京都世田谷区南烏山6丁目
     京王線 千歳烏山駅北口1分
 
http://www.city.setagaya.tokyo.jp/cgi-bin/sisetu/sisetu.cgi?mode=view&no=57

連絡先  nmwtg303@ybb.ne.jp 長谷川まで

樋口一葉 日記「塵の中」序文

一葉と桜5 桜の花との決別
第一章 日記「塵の中」の序文
 明治26年初夏、一葉は22歳 、父が亡くなってから、まる4年が経ち、
裁縫等の賃仕事だけで、一家三人が食べてゆくには収入が足りなかった。
樋口家の貧困から脱出する方法として、一葉は職業作家になるという,
たぶん、日本で最初の無謀な決意をした女性となった。
雑誌に一葉の小説は掲載されたが、期待するほどのお金にならなかった。

明治26年7月から書き始めた日記「塵の中」の序文に一葉は書いている。
「人 常の産なければ常の心なし。
手をふところにして月花に憧れぬとも、
塩噌なくして天寿を終らるべきものならず。
かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。
思ひの馳するまゝ、心の趣くまゝにこそ筆は取らめ。
いでや、是れより糊口的文学の道をかへて、
浮世を算盤の玉の汗に商ひといふ事始めばや。
 もとより桜かざして遊びたる大宮人のまどゐなどは、
昨日の春の夢と忘れて、
志賀の都のふりにし事を言はず、
さざなみならぬ波銭小銭、厘が毛なる利をもとめんとす。」
と「塵の中」日記に書いた。

簡単な意訳?
人は一定の収入がなければ、平常心ではいられない、
働かないで、月よ花よという暮らしに憧れていても、
食べ物がなければ、まともな一生を終える事はできない。
又、文学は「糊口(糊=かゆ=生計)のために書くものではない、
自分の書きたい事をそのまま書くのが本当の姿ではないだろうか。
さあー これからは職業作家を目指していた道を捨て、
算盤を片手に、商いという事を始めよう。
もう,桜を見て、歌を詠む雲上人の真似のような事は春の夢と忘れて、
「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」 とも歌わず、
           千載和歌集. 読み人知らず(平忠度)
さざ浪ではないが浪銭小銭の一厘という、わずかな儲けを求めていこう。
と「塵まみれ」日記に書いた。

第二章 桜の花との決別
日記「塵の中」の序文から、当時の一葉の気持ちが読み取る事が出来る。
1、歌塾「萩の舎」の世界との決別
①一葉は古文や和歌を学ぶ事が好きで、萩の舎では優秀な生徒であった。
 萩の舎という限られた世界で、一葉は精神的な優位性を持つことが出来た。
②一葉は将来、歌や書道の先生になろうと考えていた。
③一葉は父が亡くなってから,5ヶ月程、萩の舎に住み込み、
 師の中島歌子の内弟子兼女中のような生活をしていた。
 中島歌子に付き添い上流階級の家に出稽古に行くなかで、
 上流階級の家の裏側を見てしまうとその贅沢な暮らしぶりに憧れる反面、
 妻妾同居のような乱れた家庭生活に違和感を憶えた。(注1)
 又、中島歌子の私生活を見て、歌塾の実態を知り幻滅してしまう。
④萩の舎は上流階級のお嬢様におべんちゃらを使い機嫌を取る世界だった。
 和歌の勉強方法も,あらかじめ歌の題を決め、古歌を真似る方法だった。
 一葉は萩の舎の花鳥風月的な作風に疑問を持ち、批判を持つようになった。
⑤半井桃水との交際を中島歌子や親友の伊東夏子に反対されてしまう。
  桃水との事で、萩の舎の仲間達の棘のある噂話に一葉は傷ついた。
⑥一葉は生涯に渡り、「萩の舎」を心のよりどころにしていたと思われるが
 この時は「萩の舎」の世界から離れようと考えた。
(注1)後に、一葉は23歳の時、小説「十三夜」で上流階級に嫁いだ女姓が
    必ずしも、幸せになるとは限らないという物語を書いた。

2、半井桃水が教えてくれた「売れる小説」への疑問
①明治時代,男でも職業作家として,生きてゆくことは難しかった。
②半井桃水は一葉に「売れる小説」の書き方を教えた。
  読者は物語の筋に関心を寄せるから、筋の展開を面白くしろと言う。
③桃水の指導方法は萩の舎の和歌の勉強方法と同じように
  先ず、売れる小説を書くために小説の趣向、組み立てプランを考える。
  そのプランについて桃水に相談し、それから作文という方法である。
  学生が卒業論文を書く時のような指導方法だった。
④一葉は桃水の読者に媚びる小説の書き方に疑問を持つた。

3、一葉の考える文学の目的
①一葉は桃水から売れる小説を書く訓練を受けている内に、
 売れる小説を書くために、小説の筋や趣向を凝らす事よりも、
 文章の中に自分の気持ちを吐露して、自分の悩み、人生の問題を
 取り上げる事が、文学にとって大切なことだと考えるようになった。
②一葉が19歳の時に書いた最初の小説「闇桜」は片思いの女性、
 すなわち一葉の桃水に対する気持ちを反映する小説を書いた。

現在、台東区の一葉博物館にある「闇桜」の一葉自筆の原稿を
桃水は「字があまりにもきれいだったから」と大切に保管していた。

4、戸主として、母や妹を養う責任・金銭問題
①一葉は上野の図書館に通い、桃水のもとで、小説書きの勉強をした。
②桃水の創刊した「武蔵野」に最初の小説「闇桜」を発表してから
  萩の舎の先輩三宅花圃の紹介で「都の花」に、又「文学界」にも執筆したが
 当時の原稿料システムでは多額の収入に結びつく事は難しかった。 
③半井桃水はその頃、神田三崎町で葉茶屋「松涛軒」という店を開いた。
④一葉もどこかで商売を始めよう。そして、生活が落ち着いたら、  
 商売の合間に自分の本当に書きたい文章・文学を書いて行こうと
 今までの職業作家を目指す生活と決別する事を決意する。

第三章 作家一葉の誕生
Ⅰ下谷竜泉町に小間物屋開店まで
明治26年6月29日の日記で
家、ますます困窮し、遂に借金をするあてもなくなるような貧乏生活から、
脱出する為、母と妹三人で「此夜一同熱議 実業につかん事に決す」と
小商いの小間物屋を開く事を決意した。
そうと決まれば一葉と妹の邦子は素早く行動する
早速、物件探し、二人で牛込,神楽坂,飯田橋,御茶ノ水まで探すが
家賃が安くて、しかも知り合いの居ない所は中々無かった。
最後にたどり着いた場所は遊郭吉原の裏にある二軒長屋の店だった。
内容は、下谷龍泉町(現住所:台東区竜泉3-15-2)
間口3間、奥行き6間の二軒長屋の片方、
店は6畳、他に5畳、3畳、敷金3円 家賃1円50銭

明治26年7月20日、一家は本郷菊坂の家から、竜泉の家に引越した。
萩の舎の親友、伊東夏子には「竜泉の家に来たら、絶交よ。」と知らせ、
明治26年8月6日、荒物や駄菓子を売る小間物屋を開いた。
店を開いた直後は物珍しさも手伝って,お客も来た。
1日40銭から60銭の売上で、一ヶ月5円くらいの利益しかならなかった。
年が明けると、近所に同業者の店が出来,店の売上は減ってしまう、
竜泉の店は開店から10ヶ月で閉店してしまう事になる。

Ⅱ 作家一葉の誕生
1、異文化体験
 一葉がそれまで住んでいた上野、高輪、本郷は住宅地である。
 家には門があり、庭のある生活で外から家庭を覗く事は出来難い。
 竜泉の家は一日中、車や人通りが途切れない町のなかで、
 壁一つ隔てて、隣の生活を伺うことが出来る生活であった。
 人間の素顔が丸出し、丸見えの生活環境に変わる事となった。

2、主客の立場が逆転する。
それまで、一葉一家は客として、商人に接していた。
竜泉では立場が変わり、どのような人でも、店に来る人は客となった。
彼らの機嫌を損ねないようにしなければならなくなった。
今まで、接する機会のなかつたかも知れない人に客として接する体験は
個人の立場からだけでなく、相手の立場から人を見る事になった。

3、様々な階層の人々の生活実態を知る。
①一葉は僅かな期間にいろいろな階層の生活実態を見る機会が出来た。
1.一葉は萩の舎の内弟子時代、上流階級の家庭を覗く機会があつた。
2.竜泉で商いをしているうちに働いても働いても楽にならない
 庶民の生活を実際に肌で感じるようになった。
3.遊郭は祭りの日に女子供でも門の中に入る事が出来、遊郭内を見学出来た。
 遊郭の洗張り裁縫の賃仕事を得るために遊郭内(苦界)に入る体験をする。
 遊女という最下層の人間の惨めさを実際に知る事が出来た。

吉原遊郭の裏町に住む人々の開けっぴろげな生活を見ているうちに、
一葉は社会の底辺に住む人にも目をむけるようになり、
そこから、人間の本質を見つめることができるようになった。

②遊郭(苦界)の中に入り、女性の惨めな生活の実態を知る。
1.遊女という社会の底辺で暮らす女性たちと話をするようになる。
2.正義感の強い一葉は逃げ出した遊女を助けたいと巡査に相談した事もあった。
 
一葉は吉原の遊郭の遊女の話を聞き、彼女たちの姿から女の生き方を考え、
一葉の関心が個人の問題から社会問題へと向う事になった。

③子供の目線でものが見られるようになる。
一葉は店先に立ちながら、子供の会話や一人ひとりの気性を観察した。
店に来る子供を相手にしている内に,子供の世界に興味を覚えた。
やがて、自分の子供の頃の事を思い出していた。

④明治27年2月23日に天啓顕真術会本部を尋ね、久佐賀義孝に相談に行く。
 占い師久佐賀義孝に借金の申込に行った事について、様々な説がある。
 一葉は「相場の予想が必ず当り、金が儲かる」と言う新聞の広告を見て、
 彼から元金を借り、相場を貼り、儲けで、遊女達の一時避難所を作る資金に、
 又、先輩の田辺花圃が歌塾を開く事を聞き、自分の歌塾を作るための資金が
 出来るのではないか言うと甘い夢を持って尋ねたのではないだろうか?
 久佐賀義孝にしても、若い娘が真面目な顔で金を借りにきたのだから、
 「まあ、話を聞こうではないか」となるだろう、しかし,詳細は今だに不明。

素人商法は開店から10ヶ月で、店を閉めてしまうような事になった。
商いの為に投資した元手はほとんど回収できなかつたが、
竜泉町での商いの経験は、名作「たけくらべ」が生まれるきっかけになった。
作家一葉から見れば、大きな利益を得る事が出来たのである。

第四章 「塵の中」から,見つけだした「宝石」

「たけくらべの世界」
美登利:子供仲間の女王で吉原一の売れっ子遊女の妹。
長吉 :横町組のがき大将で鳶職の息子、
正太 :表町組のがき大将で質屋の孫、
真如 :寺の跡取り息子の真如
三五郎:貧しい車引きの子 

小学校で机を並べている級友が学校から一歩出ると、
横町組と表町組とに分れ、子供同士のけんか仲間として対立している。
吉原遊郭の裏町の子供達の日常生活の一断面を鮮やかに切り取り、
美登利に思いを寄せる少年たちの心の動きを中心に、
少年少女の個性を一人ひとり実に豊に、生き生きと描き、
子供から大人への微妙な心の変化を筆の力で表現する事が出来た。

「たけくらべ」は吉原の裏町の子供達の日常の世界を描いている。
誰でも、このような子供の頃の懐かしく美しい思い出を持っている、
自分だけの思い出として心の奥に大切に保管している。
時々、取り出す事はあつても、ほとんど誰にも見せないでいる。
一葉はこの誰もが持っている子供の頃の思い出という原石を
擬古文という日本語で磨いて、読む者に共感を与える事が出来る、
「たけくらべ」という宝石に磨き上げる事が出来た。
「たけくらべ」は源氏物語などの古典文学の最終点であり、
日本近代文学の出発点となる小説となった。

明治27年5月1日一家はたけくらべの舞台になった下谷龍泉寺町から
一葉終焉の地、本郷丸山福山町(文京区西片1-17)に転居した。
以上



ヤブザクラ・ホシザクラ

多摩に自生する桜

東京都と神奈川県にまたがる多摩丘陵に
長い間、正体不明とされた「ヤブザクラ」という
林の中に咲く自生の桜がある。
この桜は「ソメイヨシノ」よりも一週間ほど早く、
多摩丘陵の雑木林の中で咲くという。
落葉小高木、花弁は5個
花びらは白色から少し淡紅色を帯びる桜である。

ヤブザクラの写真
http://tosakah.hp.infoseek.co.jp/p02/0203/021311f.jpg

日本に自生する桜のほとんどの種類が
染色体は16本の2倍体であるのに
ヤブザクラは24本の3倍体である。
3倍体の桜は自然界に少なく
愛知教育大学の渡邉幹男助教授が
遺伝子を調べるとヤブザクラは
マメザクラと江戸彼岸の交雑種だという。
染色体をマメザクラから16本、
残りの8本をエドヒガンザクラから得た雑種だった。

さらに、大原隆明・富山県中央植物園技師は
今まで、ヤブザクラのちょっと変わった仲間と
されていた桜が新種であると発見され
最近「ホシザクラ」と名づけられた。


星桜の写真
http://www.airbepal.com/bn/10509172356200/1112949449.html

両者の桜には花びらの裏にあるがくの形や
葉の縁の形などに差が見られるが、
染色体は同じ3倍体の24本、
種子はできず、根の先から出た芽で
クローン繁殖をするなどの共通点があるという。

現在の多摩丘陵には、二つの桜の親となった、
豆桜と江戸彼岸が近接する場所はない。
どちらも、1万年以上前の地球の寒冷期に
偶々、マメザクラと江戸彼岸の生育分布が重なり、
この2種類の桜の間に出来た雑種の中で、
二つの桜がそれぞれ根を伸ばしてクローンを作り、
分布を広げて、多摩に残ったのが
現在のヤブザクラやホシザクラという種の異なる
特異な桜ではないのかと推定されている。

「ヤブザクラ」も「ホシザクラ」も
南大沢の都立大学の構内に
植えてあるようなので
来年の春には咲いている所を
見に行こうと思います。

太宰治「桜桃忌」

桜桃忌
太宰治は昭和23年6月13日深夜、山崎富栄と
三鷹市の山本有三の家の近くの玉川上水に入水した。
二人の遺体は6月19日に、入水場所から1キロ程下った所の
橋げたに絡んでいたのが発見された。
二人の遺体の発見された6月19日を記念して、
彼のお墓のある東京・三鷹の禅林寺では毎年、法要が催され、
沢山の太宰ファンが訪れる。
この日を「桜桃忌」というのは死の直前に発表された彼の短編「桜桃」による。
尚、太宰治の生誕地、青森県金木町では太宰の誕生日が
奇しくも遺体発見日と同じ、6月19日であった事から、
最近、桜桃忌から、「生誕記念祭」と名前を変えて開かれている。

東京・三鷹の禅林寺の太宰治の墓の斜め前には
明治の文豪森鴎外のお墓がある。
又、瀬戸内寂聴が昭和20年代、夫と別れて、
一人で暮らしていた下宿も禅林寺の近所である。

5年程前、二人が入水したと推定される場所に

自然石の記念碑が建てられた。
20年程前までは太宰治に縁のある建物が

三鷹市に残っていたが今はほとんどない。
山崎富栄が下宿していた葬儀屋も建て直されている。
太宰がよく訪ねたという「美登利寿司」も一昨年、春に閉店した。
以上


桜桃 と さくらんぼ

1、桜桃と「さくらんぼ」
中国では漢字の「桜桃」は日本の「さくらんぼ」ではなく、
「ゆすらうめ」の実の事である。
ユスラウメは中国原産の植物で日本には江戸時代初期に渡ってきた。
ユスラウメの語源について、二つの見解がある。

①牧野富太郎博士の「枝をゆさぶって果実を落とした」からという説と
②深津正の朝鮮名の「移徒楽(いさら)」「イスラ」がなまったという説がある。


日本のほとんどの桜の木に実がなる。
黒く熟したのを噛むとサクランボの香りがするが食べるほどの大きさではない。

木で黒く熟した実を少し湿り気のある所に保存しておいて、冬に撒くと芽がでる。
実の部分に発芽抑制作用があるから、種を良く洗って,

実をきれいにしたほうが良いという説もある。
種を撒く冬まで保存する時、種をあまり乾燥させてしまうのは良くないようである。
瓶に入れて置くと3%くらいのアルコール分の酒が出来るが(酒税法違反になる。)
その種では撒いても発芽がしないという。

2、食用のサクランボの種類

中国では生食用のサクランボとして2種類ある
①中国桜桃 シナミザクラ(支那実桜)
        カラミザクラ(唐実桜)
②白花中国桜桃シロバナカラミザクラ(白花唐実桜)の二つある。
  どちらも普通のサクランボよりも小さい粒で黄色のサクランボがなる。
  普通のサクランボは夏、涼しい地方が栽培に適しているが
  この種類は暖地でも栽培可能な東京でも実るので、見かける事ができる。


セイヨウミザクラには三つの種類がある。
Ⅰ.カンカオウトウ(甘果桜桃) 西洋実桜
  Ⅰ-1.果肉が軟らかいハート群
  Ⅰ-2.果肉の硬いビガロー群
Ⅱ.サンカオウトウ(酸化桜桃) 酸味実桜の3種類である。

セイヨウミザクラは西アジアが原産地である。
鳥の糞で運ばれたのか、人為的かまだ結論は出ていないが
ヨーロッパ全土で有史以前から野生化していた記録が残っている。

Ⅰ.カンカオウトウ 甘果桜桃は2種あり、
 Ⅰ-1.果肉が軟らかいハート群の品種は
    ①ナポレオン   18世紀初めヨーロッパで栽培
               日本には明治初めに輸入された。
               晩生種 実は大粒、淡黄に赤斑
    ②キダマ(黄玉) アメリカのオハイオ洲で交配
    ③ジャンブレー  仏のリヨン付近のジャンブレーで作出された。
               明治後期輸入
          などが代表的な品種である。

       日本でサクランボは佐藤錦・蔵王錦や
       米国産の高砂(伊達錦)の品種が有名である。 
       国産サクランボの代表的品種 
    ④ 「佐藤錦」は育成者が山形県の佐藤栄助氏 
       砂糖のように甘いので名前は佐藤錦 
       1912年ナポレオンと黄玉を交配から作出された。 

    ⑤「蔵王錦」は1935年頃、山形県の上山市で
        ナポレオンの交雑種から生まれた              
   
    ⑥「アメリカン・チェリー」日本に輸入されているさくらんぼ
          1875年アメリカのオレゴン州で交配された。
          黄色地に赤斑⇒濃赤⇒赤黒色で大粒の「ビング」
          という種類のようだが。まだ確認は取れない。

Ⅰ-2果肉が硬いビガロー群は
   アメリカのカリフォルニア洲などで栽培される
    「ブラック・タータリアン」などがある。?

Ⅱサンカオウトウ 酸果桜桃 果実がすっぱい
   さくらんぼでドイツが本場である。
   果実は缶詰やリキュール酒の加工用になる。
   チェーホフの「桜の園」の桜はこの桜。
以上


桜の挿し木、とり木、種の撒き方

桜の挿し木、とり木、種の撒き方
1、桜の挿し木

桜の挿し木の適月は3月と6月

3月(前年枝さし) 芽が膨らむ直前が良い。
前年に伸びた花芽の無い、少し太めの枝を使用

6月(緑枝さし) 今年のびた緑色の枝を使用
今年伸びた枝で成長が止まり、中ば固まった枝が良い。

1、さし穂   枝を10cm前後に鋏で切り、束ねる。
    6月は 上部の葉を2枚残し、他の葉は切り落とす。
2、枝の水揚げ さし穂の下半身を約3時間、新鮮な水につける。
3、発根ホルモン さし穂の下部を鋭利なナイフで斜めに切り戻し、
           切り口に発根ホルモンをつける
4、さし方 細竹でさし穴を作り、
       さし穂を斜めにさす(深さ6センチ前後)
       株元を指で押さえる。
       さし穂は3~4センチの間隔でさす。
5、水を十分に与える

さし床
① 高さ10センチ位の植木鉢や木箱を用意する。
② 用土は底に2~3センチ位桐生砂を敷き
  その上に鹿沼土(中粒)を5~6センチ位入れ
  鉢の上部は1~2センチの空きを残す
  鹿沼土(中粒)だけでも良い

発根ホルモン、発根促進剤
①住友化学園芸の「ムートン」15g 420円位
②バイエルンの「オキシベロン」1800円位が代表的な製品です。
大きな日曜大工センターの園芸売り場にもっと小分けにした製品があるとおもいます。

大島桜系は一割位の割合で発芽した。

園芸種の殆どの桜は大島桜系であるから、

大抵の桜は挿し木が可能である。
豆桜の系統は挿し木が可能で、
盆栽に多い「富士桜」系統
秋に咲く「十月桜」は挿し木した年に咲いた。
その他に「菊桜」や「ウコン桜」なども
挿し木の発根率が高いという。


「ひこばえ」という根元近くから出る枝によっては

根がある枝がある。それを根を残すように採り、

植木鉢に植えると100%根が付きます。

春まだ早く、花屋さんで見かける「啓翁桜」は
花が終わって,直ぐに挿し木すれば発芽するそう。

2、取り木は
桜の取り木の適期は5月末~6月に掛けて、
少し古い、幹がひび割れをしているような桜の枝を
水を含ませた「水ごけ」をボール状に包み、
上から、黒い油紙か黒いビニールで包んで、
ひもで結び、水ごけの水が乾燥しないようにして、
次の年の6月まで置いておくと、
水ごけで包んだ枝に髭根が出てきている。
その枝を切り取って、土や鉢に植えれば
翌年から桜の花が咲きます。

3、種の撒き方

桜は自花不稔性(自家受粉しない、同一品種間では受精しない)ので、
種から育てた桜の木はすべて新種になる可能性があります。
1, 成熟果実(黒紫色になったもの)を採取
2、果皮や果肉を水洗いして良く取り除く。
種の周りの実の部分に発芽抑制剤があるので、
実の部分を良く洗って取っておいたほうが良い。
種の保存方法
1、湿った腐葉土の中で埋蔵するか
2、湿った紙に包み、0℃~3℃の冷蔵庫に貯蔵する。

桜の種は
①種を湿めらせて10度以下の温度に2ヶ月間曝し、
②種の発芽に適した温度が5~10度だという。
以上のような条件が揃わないと発芽しないという。
実生、種まき期
1、保存して置いた種を12月頃までに畑や庭に撒く。
2、鉢などに蒔く方法
 ①蒔き床は赤玉土7、川砂3の混合土を10~12㎝の深さにする。
 ②冷蔵庫に保存しておいた種を一昼夜、水に漬ける。
 ③一粒、2~3㎝間隔にばら撒く。
 ④1~1.5㎝の厚さに覆土する。
 ⑤その上に腐葉土を蒔き土が見え隠れするように敷く。
 ⑥以後、乾かない程度に潅水する。
 ⑦鉢は陽だまりのなるべく暖かい所に置く。

花が咲くのは早くて5年、10年以上掛かる場合もある。


                      桜守

宇野千代展 「書いた,恋した、生きた」

「宇野千代展ー書いた、恋した、生きた。」
  「書いた、恋した、生きた」はスタンダールの墓碑銘です。
会期:平成17年4月29日~6月12日
場所:東京・世田谷文学館
年譜:明治31年(1897)11月28日 山口県岩国市生まれ
    平成8年(1996)6月10日 98歳で永眠

世田谷文学館HP宇野千代のページ
http://www.setabun.or.jp/unochiyo.htm
世田谷文学館見学者の感想
http://www.setabun.or.jp/chiyo_report1.htm
宇野千代さんの生家のHP
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/mac/040114-unochiyo-seika.htm
宇野さんというと晩年の着物姿を思い浮かべますが
昭和11年6月 39歳の時に、スタイル社を設立して、
日本最初のファツション雑誌「スタイル」を創刊しました。
当時は珍しい、お洒落に関する記事が評判となり、人気がありました。
宇野さん自身もモデルとして雑誌に登場しています。
スタイル社は昭和34年(1959)4月に倒産。
若い頃の洋装の宇野さんも素敵です。
女優の藤真利子さんに面影が似ています。
会場には宇野千代さんが大好きだった
桜模様の和服が沢山展示されていました。
桜に対する宇野さんの文章から、
1、書いた  いくつもの恋
     モデル    作品
   ①父親    「おはん」「風の音」
   ②尾崎士郎 瀬戸内寂聴に「尾崎さんが一番好き」と告白
   ③東郷青児 「色ざんげ」
   ④北原武夫 「刺す」「雨の音」
   ⑤自叙伝  「或る一人の女の話」「生きてゆく私」
「私は夢を見るのが上手」から
 いくつもの恋をした。そしてそれと同じ数だけ失恋したのであつた。
いつの場合も経緯は同じであつた。
私の恋は、考へる隙のないほど素早く始まり、そして終はるのであつた。
 好きな人が目の前に現はれると,私は忽ちにして、その人のとりこになり、
前後もなく考へずに行動を開始するのだった。
何を逡巡する事があらう,私はその人の目を真つすぐみて、
「私はあなたが好きです。」と言った。
好きだと言はれて不愉快に思ふ人はゐなかつた。恋は成就した。
             平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」
ファツション雑誌「スタイル」の協力者、北原武夫との出会いから
別れまでの日々をもとに小説「刺す」「雨の音」を書きました。
「雨の音」から
 或るとき、私の作った着物が、世にも美しく染め上ったと思われ、
思わず私はそれを、吉村のいる所へ持って行って、見せないではいられなかった。
「ね、同じ花びらだけを,繰り返して置いたものなのよ。」と説明した。
私が美しいと思ったものが、そのまま吉村にも伝わらない筈がない、
と思ってでもいたのだろうか。
「きれいだね。配色が美しい。」吉村はちらと見て、
さう言ったが、それはただ、隣人の批評でしかなかった。
私はすぐに、そのことを了解した。
                昭和49年(1974)「雨の音」
「刺す」
 私たちの別離は、極く自然に行われた。
秋になって、木の葉がその枝から落ちるのと同じように。
そのことに苦悩があったとしても、それは木の葉の枝から離れる瞬間の、
あの、微かな痛みに似たものであった。
             昭和41年(1966)「刺す」より
2、恋した   桜模様
「私は夢を見るのが上手」
 私は桜が大好きである。その単純明快な形が好きである。
いつのまにか私の本はさくらの装丁が多くなった。
又,私のデザインする着物,ハンカチ,陶器も、桜の模様が特徴になつてゐる。
 さくらの単純明快な形が、その組み合わせによって、
さまざまな表情を生み出す面白さ、その美しさ、
そこに私は尽きることのない魅力を感じるのである。
              平成4年(1992)「私は夢を見るのが上手」
3、生きた  「根尾村の薄墨桜」
http://www.mirai.ne.jp/~hasegawa/usuzumi/
宇野さんは昭和42年、小林秀雄の紹介で
岐阜県根尾村に「薄墨の桜」を見に行きました。
その頃の薄墨桜は枝が二つに裂け、見るも無残な姿でした。
それを見た宇野さんは何とかして、桜を助けたいと、
桜の惨めな姿を本に書いたり、色々な人に相談しました。
やがて、沢山の人々で桜を守るための協力体制ができ、
薄墨桜は再び美しい姿に生まれ変わりました。
その後、映画監督の羽田澄子さんが「薄墨桜」の
記録映画を撮りました。
「薄墨の桜」
 春の日には珍しく、雲ひとつない青空の下でした。
私たちは思わずそこに立停まりました。枝はのびのびと拡がっていました。
どの小枝の先にもぎっしりと、薄墨色の花がもぶれついて、
二反歩の空間を埋め尽くしている壮観は,見事でした。
それはあの、老婆の非業の死によって、
私たちの念願が勝利をしめした事の、その結果だと言えましょうか。
        昭和50年(1975) 「薄墨の桜」
 おまけ 
① 恋愛するにも「練習」が必要です。
②今、あなたの上にあらわれている能力は
 氷山の一角 真の能力は、水中深く深く隠されている。
③幸福は、遠くにあるものでも、
 人が運んでくるものでもない
 自分の心の中にある
④能力というものは
  天与のものではなく
  自分で作るものである
⑤自分の幸福も 人の幸福も 同じように
 念願する境地まで歩いて行きたい
⑥好奇心は人間を生き生きさせる。
⑦一握りの仕合せを求めて、生きるのが人間である。
⑧人生はいつだって、今が最高のときなのです。
⑨この頃、思うんですけどね、
  何だか私 死なないやうな気がするんですよ  
   は は は は は
           宇野千代 95歳
番外 「私は過去を振り返らない、反省するけど、後悔はしない」
                                       テレビ番組のインタビューで
以上

ジョージ・ワシントンと桜の木

ワシントンの正直桜の話
 アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンは子供の頃、
お父さんが大切にしていた桜の木を切り倒してしまいました。
「これは誰がしたのだ。」とお父さんが尋ねたので、
「私が切り倒しました。」とワシントンは正直に答えました。
お父さんはワシントンの正直な事を喜びました。

このワシントンの桜は日本の桜とは違う、セイヨウミザクラで、
しかも、この話は作り話だそうだ。


M・ハーシュ・ゴールドバーク著 「世界ウソ読本」
M..Hirsh Goldberg[The BookOfLies]
 それによるとロック・ウイームズという

1759年メリーランド生まれの自称牧師?

が出版社に「ワシントンの伝記」で一儲けしようと持ちかけ

彼がワシントンの逸話をまとめた伝記を作り、

1800年「ワシントンの生涯」という本を出版した。
本は売れたらしいがワシントンと桜の木の逸話は嘘で

彼がでっち上げた話だった。
正直である事を教えるために嘘をついた訳です。

ワシントン市 ポートマック河畔の桜

ワシントンの桜といえばポトマック河畔の桜が有名

衆議院議員で東京市長の尾崎行雄(安政5年1858~昭和29年1954)が
明治45年アメリカのワシントン市に桜の苗木(3000本)を送りました。

尾崎行雄が昭和29年10月6日に神奈川県の逗子で亡くなられてから
平成16年で50年、これを記念して国会前の憲政記念館では
平成16年5月20日~6月11日まで、
「尾崎行雄と議会政治特別展」が開かれました。

特別展でワシントン市に桜を送った経過が展示されていました。

1909年(明治42年)8月18日
 衆議院議員で東京市長の尾崎行雄はその頃、
日露戦争を講和に導いてくれたアメリカの恩義に報いようと考えていた。
丁度、アメリカのタフト大統領夫人が日本の桜を
ワシントンに植樹したいとの希望があることを知り、
尾崎行雄はワシントン市に桜の苗木を贈る事を決めた。
10種2000本の桜の苗木をワシントンに贈った。
しかし、桜の苗木は病害虫のため、防疫検査が通らず、
全て焼却処分された。この失敗から尾崎は健全な苗木の育成を考え、
当時の農商務省興津園芸試験場に委託して、
苗木を育て3年後の明治45年(1912年)
染井吉野ほか9種類3000本の苗木をワシントンに贈った。
その桜はポートマス河畔で見事に開花した。
贈られた苗木は染井吉野1種類ではなく、
10種類もの種類があつたために桜の交雑があり、
アメリカの気候風土に適合した二代目、三代目の桜が生まれた。
ポトマック河畔を始め、全米各地に広がり日米親善のシンボルとして
今日に至っている。

特別展で配られていた無料の小冊子に
尾崎行雄の三女 相馬雪香さんの
「父・咢堂の思い出の数々」が載っていました。
その中で尾崎行雄が娘相馬雪香さんに与えた言葉は
尾崎行雄の優しさと心の広さがにじみ出ていて、
今の世界を考える一助になると思い取り上げます。

「尾崎行雄と議会政治特別展」編集・発行・衆議院憲政記念館 
相馬雪香「父・咢堂の思い出の数々」  10ページ

 「父は東京市長時代、アメリカに桜を三千本寄贈しました。
それは、日露戦争の折、アメリカのルーズベルト大統領の
好意に満ちた講和斡旋に対する感謝の気持ちからでした。
時の米大統領タフトの夫人が、
沼地の多かった当時のワシントン市を美化するために
日本の桜を植えたい希望をもっている事を知り、
市民を代表する意味で行った事でした。
しかし、私が小学校の地理の時間に先生が「桜は日本の魂だ、
それを外国に売ったヤツがいる」と言われたのです。」 同書10ページ

この桜の返礼にアメリカから30本のハナミズキの苗木が贈られました。
日比谷公園など日本全国16箇所の公園に植えられました。
ワシントン市のポートマス河畔の立派な桜並木に比べて、
この時、桜の返礼にアメリカから贈られた「ハナミズキ」の木は

現在、小石川植物園や世田谷の都立園芸高校の校庭の裏のほうに

人目を避けるように植えられています。
しかも数本しか残っていないのです。
相馬雪香さんの文章でその理由が少し判ったように思いました。

尾崎行雄の記念展覧会に配られた小冊子に
政策研究大学院教授 伊藤 隆氏が
「政治家 尾崎行雄について」という文を書いている。

尾崎行雄は慶応義塾で学び、福澤諭吉の推薦で
明治12年「新潟新聞」の主筆となりました。
翌年、統計院権少書記官となりましたが明治14年の政変で退官し、
その後、政治家になりました。

大正8年(1919)3月、尾崎行雄は第一次世界大戦後の
欧米の情勢を視察するため、横浜を出航しました。
この視察の途中、尾崎がワシントンで桜と再開した時詠んだ歌

「異国(とつくに)の春の光を添へなんと
        寄せし桜の花 この日咲く」       咢堂翁61歳

尾崎は戦争に荒廃した戦渦のあとのヨーロッパを目のあたりにし、
あの大戦は何のための戦争であつたのかと疑問を強く持った。
「全然無意味、無目的の悪戦苦闘に過ぎなかったのだ、
幾百万の戦死者こそ、気の毒なれ」尾崎行雄著「軍備制限」
尾崎行雄は戦争の悲惨な現場を見た事で
人間として、政治家として大きく成長したのでした。
この経験から尾崎は軍備縮小論者となり、
軍縮決議案を第44議会大正10年(1921)に提出しました。

同書 56ページには
「昭和19年6月、尾崎は大審院で不敬罪事件の無罪判決を受けるが、
その政治活動は閉ざされてしまっていた。
尾崎は敗戦に至る間、池の平の山荘にこもり、わが国の敗戦を見越して、
日本の休戦と新世界の建設を提案する論文を執筆した。
終戦後、尾崎は議会に未発表の論文を基にした世界連邦建設に関する
決議案を提出した。」 咢堂翁87歳
これは世界連邦の提唱であるとともに、
国際社会での日本のあり方を示すものでした。

つぎの文章は尾崎行雄が娘さんの相馬雪香さんにお話したことです。

同書 相馬雪香「父・咢堂の思い出の数々」から

「大正12年の関東大震災の時、私どもは軽井沢にいました。
たまたま父を訪ねて来た人が、不逞鮮人が井戸に毒を入れたということで、
自警団が組織されて大混乱だという話をしていました。
父は「(毒を入れたなどということは)流言飛語だと思うけれど、
一歩譲ってそうだとしたら、なぜ、そのようなことをするほど追い詰められた
気持ちにさせられたか、こちら側に反省が無いとだめです」と言っていました。
相手だけを責めるのではなく自分を省みるということも
私の心のどこかに根づいたと
言えましょう。何年か経って、排日運動が中国に起こり、
こらしめるべきだという意見がマスコミを賑わした時も、
父は「排日になるようなやり方を反省しないのはおかしい」と言っていました。
物事は一方からだけ見て判断するのではなく、
両方から公平に見ることが父の特長だったと思います。」 同書10ページ

  尾崎行雄が娘さんの相馬雪香さんにお話した事はこれからの日本の問題について、私たちが考え行動するために大切な事だと思うので、ここに書き留めておきます。